「一九八四年」感想

権力を至上の目的とした社会がどのような変貌を遂げるのか。「動物農場」の作者であるジョージ・オーウェル氏がその慣れの果てをシミュレートし、描いているのが本作「一九八四年」ではないだろうか。



本書で登場するオセアニアという国は、日常的に歴史の改竄が行われ、人々は常に党の意思に反していないかを監視され、<思考犯罪>を犯した者は拷問にかけられ処刑されるディストピアである。真実省(ミニトゥルー)で歴史改竄の仕事をするウィンストンは、ある事件をきっかけにオセアニアの社会構造に疑念を持ち、<ビック・ブラザー>率いる党を打倒する野望を抱くようになる。鬱屈した日々を送るウィンストンだったが、同じ志を持つジュリアと恋愛関係になる。そして、二人の時間を重ねていくうちに、党への不信は深まり、お互いを想い合う愛は決して裏切らないと誓いあう。しかし、幸福な時間は長くは続かず、二人は思考警察に捕まり、愛情省で拷問を受ける。オブライエンからの拷問を受ける中で、ウィンストンは党の目的が現在の社会構造の永続化であることを知る。拷問と洗脳を受けたウィンストンは、最終的に、決して侵されないと信じていたジュリアへの愛情すらも自らの意思で放棄する。心から党への服従を果たした瞬間、ウィンストンは<ビック・ブラザー>を愛しながら処刑される。



 権力は、それ自身を維持する目的で際限なく行使される得るのでないか。拷問中のウィンストンに向けたオブライエンの以下の言葉を受けて、私はそう思った。

 

「権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている」

 

確かに、自らの意思で権力を握る人間がそれを放棄するというのは考えにくい。つまり権力を握った人間は、大なり小なり権力を維持する目的で権力を行使すると考えられる。

「一九八四年」で描かれた世界は、究極的に権力を維持する状況が作り上げられており、そのためになら人間の感情をコントロールすることにまで権力が行使されるのである。主人公のウィンストンが辿ったように、反逆者は反抗の思想や感情を持って死ぬことすら許されず、心の底から党に服従するよう再教育されたうえで処刑されるのである。

 

 また、本書での権力に対する次のような考え方もとても興味深かった。

権力を行使するというのは、必然的に相手の意に反したことを強制することである。何故なら、何もせずとも相手がこちらの意図する動きをするならば、それに対して権力を行使する必要はないからだ。そして、権力に執着した社会は、権力により相手を踏みにじる快感と権力を侵犯しようとする者への憎悪とが基盤となる。

「一九八四年」では、<二分間憎悪>や<憎悪週間>といったかなり露骨な名称の慣習が描写されているが、読み終えた今ならこれらの慣習が党員に権力を崇拝させるための機能の一つに過ぎないと思わされる。

 

 とはいえ、人が集団として行動する以上、権力は大なり小なり必要となってくる。そのうえで、権力の介入をどこまで許すか、といった事は慎重に決定する必要があると感じた。

 

「一九八四年[新訳版]」著:ジョージ・オーウェル 訳:高橋和久 早川書房 2019年10月15日 四十一刷