映画 「Swallow」 感想

大企業の御曹司との結婚生活、"幸せじゃない"なんて口が裂けても言えない境遇。
幸せなはずの生活の中で、ハンターが抱くコンプレックスは徐々に彼女の心を蝕んでいく。

 

劣等感で心が押しつぶされそうな時、ハンターはふと手にしたビー玉を嚥下した。
とんでもないことをした。でも、そのことがハンターの心を軽くした。
気付けばハンターは異食にのめりこんでいた。

 

ハンターの異食症が夫と義両親に知られた途端、靄に包まれていたような違和感が次第に顕在化していく。
自らを束縛するしがらみに苦悩しながらも、ハンターはしがらみと決別することを選択する。

 

[Swallow 公式サイトURL]
http://klockworx-v.com/swallow/#smooth-scroll-top

 


自分に自信が持てないハンターが、夫と義両親の愛に違和感を感じながらも、それをよすがに何度も夫に愛を確認する姿は痛ましかった。
そして、異食症の発症をきっかけに自らを束縛するしがらみと正面から向き合っていくハンターの姿は、見ているこちらも胸が張り裂ける思いがした。

 

本作では何度も"幸せ"という言葉が、台詞や挿入歌で繰り返し登場する。
そして、"しがらみにまみれた物質的・社会的豊かさ"より"自分の人生は自分で決める、決められること"の方が幸せだというメッセージを強く感じた。

 

一方で、上記の様に幸せの種類を選択できるのは安定・成熟した社会に生活する人々の特権なのではないだろうかと疑う気持ちもある。本作でも紛争地出身で看護師のルアイという人物が登場し、以下のような言葉をハンターに投げかけるのだ。
「紛争地には心の病などない。皆が銃弾を避けるのに必死だから」
圧倒的な理不尽を前では、幸せの形を選ぶこともできないのだ。

 

しかし、Haley Bennett演じるハンターが苦しみ、悲しみ、そして時には怯えながらも自らの人生を切り開いていく、生々しいまでの姿に感動を覚えたことを否定することはできない。

 

「Swallow」監督:Carlo Mirabella-Davis 2021年1月1日日本公開

「吠えない犬ー安倍政権7年8カ月とメディア・コントロール」 感想

民主主義国家にとって主権者は国民である。であれば、国民による政府へのフィードバックが成されなければ民主主義は破綻し、全体主義が国を支配するだろう。

 

しかし、フィードバックに必要な情報を必ずしも政府が全て公開しているわけではない。ジャーナリストは政治権力が表に出さない事実を衆目に晒し、国民が主権を行使する正当な機会を提供する役割を担っていると言える。

 

本書では日本とアメリカで、政府とメディア(主に新聞)の関係を対比し、現在の日本のメディアが直面する課題を取り上げている。

 

 

その中で特に本書で繰り返し述べられていたのは、メディア同士の横のつながりの有無である。

デジタル技術の進歩や、テロの脅威、世界的な情報戦(サイバー攻撃)の激化。世界を取り巻く環境はますます政府による管理・監視体制の強化を後押ししており、政府は不都合な事実を隠しやすく、メディアへの圧力は増していっている。

 

そのような中でも、アメリカでは記者や内部告発者が政府による圧力にさらされた場合、保守・リベラルを問わずメディアは「表現の自由」と「言論の自由」のもとに団結し、抵抗する。

 

しかし、日本ではメディアに政府が圧力をかけると、メディア同士でバッシングをする。そして、記者や内部告発者は守られることなく圧力に降伏してしまうのである。

政府は今後ますますメディアコントロールを先鋭化させ、圧力をかけてくることを考えると、日本のメディアはタコツボ化型ジャーナリズムを脱し、横のつながりを持たなければいけないと指摘されている。

 


本書を読んでいてジャーナリズムは民主主義を守る戦いのなのだと感じさせられた。

民主主義は国民が主権を持つとはいえ、そもそも主権を正当に行使する機会が奪われては民意を反映したフィードバックはできない。
政府への批判ができず、国民が正当に主権を行使できなければ、政府の権力は暴走し、日本を全体主義が支配するようになるだろう。

太平洋戦争で大日本帝国が一億総玉砕を宣言した結果、国民はアメリカ軍からは武装民兵として虐殺され、大日本帝国からは国体護持のために人間爆弾同然の扱いを受けた。
戦争に限らず、全体主義的な思想のもとでは国民こそが悲惨な目に合うことは必然と思われる。

本書で扱っているのは日本のメディアの課題であるが、日本の民主主義について考えさせられる一冊だった。

 

「吠えない犬ー安倍政権7年8カ月とメディア・コントロール」著:マーティン・ファクラー 双葉社 2020年11月2日 第一刷

「それでも日本人は『戦争』を選んだ」感想

人は歴史から教訓を得られる。歴史を解釈し、正しく教訓を得ることができれば、それは数世紀先を見通す知識となる。ルソーは戦争について論文を書き、世紀をまたいで適用できる原則をみつけだした。

 

しかし一方で、人は歴史にとらわれることもある。アメリカはベトナム戦争に執着したため、泥沼化した。これはアメリカが手を出さなかったことで中国が内戦の結果共産化したという、主観的な「中国喪失」体験に起因するとアメリカの歴史学者アーネスト・メイは分析している。

 

本書では近代日本が如何にして太平洋戦争・日中戦争に踏み切ったのかを、近代日本が経験した3つの戦争(日清戦争日露戦争第一次世界大戦)を踏まえて、当時の国際情勢や国内情勢を見ていきながら、中学生に講義した内容をまとめている。

 

日清・日露戦争を勝利した大日本帝国は、植民地を得て列強の仲間入りを果たす。しかし、第一次世界大戦が終わる頃には、清国も帝政ロシアもなくなり、代わりに中華民国ソビエト連邦が成立していた。2つの新国家成立にともない、グレーゾーンであった満州に対する大日本帝国の利権をめぐり、日本は中国との対立を深めていく。時を同じくして国内では、陸軍が農民を中心に民衆の人気を集め、クーデターや暗殺により政治を麻痺させていく。そのような情勢下、満州事変を発端に、陸軍は内閣や統帥権に先行して中国に侵攻する。軍部と内閣の連携がちぐはぐなまま、大日本帝国日中戦争・太平洋戦争の開戦を選択する。

 


軍部で満州への執着が特に強かったことが、大日本帝国の世界からの孤立を招いていると感じられた。日露戦争での勝利が日本人にとって神聖化されていたことがこのような執着を生んだと考えられるのではないだろうか。

 

また、意外だったのは、一部の実情を把握している人を除いて極めて太平洋戦争の開戦を肯定的に受け止めていたという記録があったことだ。敗戦間近の悲惨な状況が印象強いだけに、開戦の段階で中国への戦争は弱い者いじめの様に感じで英米に対する宣戦布告を爽やかな気持ちで受け止めた等の表現は、当時の人との価値観の差を感じた。

 

歴史は人に教訓を与えもすれば、執着をもたらすこともある。しかし、正しく教訓を得られれば、未来を選択する力となるというメッセージにはとても感銘を受けた。

 

「それでも日本人は『戦争』を選んだ」著:加藤陽子 新潮文庫 2016年12月30日 第八刷

「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」感想

満州事変から真珠湾攻撃まで、大日本帝国はどのような制約条件のなか世界の国々と交渉をしてきたのか。本書では当時の状況を「リットン報告書」、「三国同盟」、「日米交渉」の3つの交渉から史料をもとに読み解く。

 

天皇のもとに横並びの内閣と陸海軍、軍部のクーデターや国家主義団体の暗殺事件が当たり前のように相次ぐ情勢、外交交渉とかみ合わない軍部の行動や意向。不安定な情勢で臣民は正気を失い、国連から脱退した大日本帝国は、ナチスと同盟を結び、真珠湾攻撃で太平洋戦争の幕を切る。

 

しかし、その表出した過激な結果行動の裏では、信じられないほど粘り強くそれらを阻止しようと動いている日本人もいたことに率直に驚いた。

 

江戸幕府から明治政府へと変わることで、国民は政治を自分事として考えるようになった。さらに太平洋戦争後は平和主義の国家として再出発し、経済大国へとなった。そしてこれから先、間違いなくなんらかの重大な変化の局面を迎えるときがあるだろう。その時日本が選択する道が、より良いものにするよう、歴史を学ぶモチベーションとなる本だった。

 

「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」著:加藤陽子 朝日出版社 2016年10月20日 初版第5刷

「バッタを倒しにアフリカへ」感想

本書はバッタの魅力に捕らわれた1人の日本人(前野ウルド浩太郎氏)が、バッタと職を求めて奮闘する様子を記録した研究エッセイである。

 

本書では、筆者の五感に訴える表現と率直な心情描写で、サハラ砂漠の厳しい気候や、日本では考えられない脅威(テロや毒虫、砂漠の夜の暗闇...etc)、そしてそこで強かに暮らす人々のことが、生々しく描かれている。モーリタニアという国に関して一切知見がなかったが、筆者による詳細な描写と写真のおかげで、読みながらリアルなアフリカの空気を感じた。

 

日本とは全く異なる環境・文化に身を置きながら研究を進める筆者は、就職先への焦りを抱えながらも、研究対象のバッタが干ばつでいなくなったり、特注した実験装置が壊れてたりと、心が折れてしまいそうな経験をしている。それにも関わらず、それをユーモラスに描き、ババ所長や相棒のティジャニに慰められながら、研究を続ける様子に励まされる思いがした。

 

また、読み始めた当初は、蝗害というものが世界的な問題であることは理解したが、日本で資金をだしてバッタの研究をする意義を理解できなかった。しかし、筆者が研究資金を得るため応募していた白眉プロジェクトの面接で、松本総長の次のような言葉を読んで、目が開く思いがした。

 

「過酷な環境で生活し、研究するのは本当に困難なことだと思います。私は一人の人間としてあなたに感謝します。」

 

この言葉から感じられるあまりの器の大きさに敬服した。世界の問題を解決しようと取り組む研究者に国境は関係ないのだ。研究者という仕事のスケールの大きさに、素直に格好いいなと感じた。そして、日本が自国から遠く離れた異国の問題解決にも資金を支出したことに誇りを感じた。 

 

試しにGoogle Scholarで検索してみたが、現在も筆者(Maeno Ould Koutaro)はバッタの研究を続けられているようだ。

 

今後も筆者の研究活動が、実り多きものでありますように。

 

「バッタを倒しにアフリカへ」著:前野ウルド浩太郎 光文社新書 2018年5月15日 13刷

「やがて恋するヴィヴィレイン 1」感想

戦場で想いを寄せ合った男女は、戦争が終わったとき、平和によって切り裂かれる。二人の再会は新たな戦乱をもってしか果たされないのか。「やがて恋するヴィヴィレイン」は「とある飛空士の追憶」を書いた犬村小六氏が描く戦争ロマンスファンタジー小説である。

 


三千メートルの断崖絶壁で隔たれた3つの異なる文化圏、エデン、グレイスランド、ジュデッカが存在する世界で、物語はグレイスランドの国々を中心に展開する。

 

謎の少女シルフィが最期に言い残した願いを叶えるため、「ヴィヴィ・レイン」という人物を探すルカ=バルカ。ガルメンディア王国軍で兵士をしていた彼は、王女ファニア=ガルメンディア直属の近衛連隊として、隣国のテラノーラ慈善同盟への遠征に参加する。
順調に侵攻していたガルメンディア軍は、しかし、テラノーラ軍が投入したエデンの機械兵"ミカエル"の暴走により、壊滅的打撃を受ける。
敵に捕らえられたファニアを救い出したルカは、ファニア達と共にガルメンディア軍を勝利に導くべく大胆な作戦を決行する。

 


敵の追跡を掻い潜る中で、ルカとファニアがお互いへの信頼を深めていく描写がある一方で、その関係が二人立場の違い故に悲劇を孕んでいることも伺える甘く切ない恋物語

戦争終結後に、ルカがファニアの作る王国とヴィヴィレインの新たな手掛かりに希望を抱きながら仲間と共に旅立つ一方、ファニアはいずれルカと対立する未来を悲嘆し一人涙を流す。この二人の描写の対比が、ファニアの悲しみを印象的にし、胸が締め付けられるような思いがした。

ファニアとルカとの関係は果たしてどうなるのか。ルカはヴィヴィレインを見つけ出し、シルフィとの約束を果たすことができるのか。他にも様々な謎を残したまま、次巻以降に続く今後の展開が気になって仕方がない。

 

「やがて恋するヴィヴィ・レイン 1」著:犬村小六 株式会社小学館 2016年9月21日 1刷

「一九八四年」感想

権力を至上の目的とした社会がどのような変貌を遂げるのか。「動物農場」の作者であるジョージ・オーウェル氏がその慣れの果てをシミュレートし、描いているのが本作「一九八四年」ではないだろうか。



本書で登場するオセアニアという国は、日常的に歴史の改竄が行われ、人々は常に党の意思に反していないかを監視され、<思考犯罪>を犯した者は拷問にかけられ処刑されるディストピアである。真実省(ミニトゥルー)で歴史改竄の仕事をするウィンストンは、ある事件をきっかけにオセアニアの社会構造に疑念を持ち、<ビック・ブラザー>率いる党を打倒する野望を抱くようになる。鬱屈した日々を送るウィンストンだったが、同じ志を持つジュリアと恋愛関係になる。そして、二人の時間を重ねていくうちに、党への不信は深まり、お互いを想い合う愛は決して裏切らないと誓いあう。しかし、幸福な時間は長くは続かず、二人は思考警察に捕まり、愛情省で拷問を受ける。オブライエンからの拷問を受ける中で、ウィンストンは党の目的が現在の社会構造の永続化であることを知る。拷問と洗脳を受けたウィンストンは、最終的に、決して侵されないと信じていたジュリアへの愛情すらも自らの意思で放棄する。心から党への服従を果たした瞬間、ウィンストンは<ビック・ブラザー>を愛しながら処刑される。



 権力は、それ自身を維持する目的で際限なく行使される得るのでないか。拷問中のウィンストンに向けたオブライエンの以下の言葉を受けて、私はそう思った。

 

「権力を放棄するつもりで権力を握るものなど一人としていないことをわれわれは知っている」

 

確かに、自らの意思で権力を握る人間がそれを放棄するというのは考えにくい。つまり権力を握った人間は、大なり小なり権力を維持する目的で権力を行使すると考えられる。

「一九八四年」で描かれた世界は、究極的に権力を維持する状況が作り上げられており、そのためになら人間の感情をコントロールすることにまで権力が行使されるのである。主人公のウィンストンが辿ったように、反逆者は反抗の思想や感情を持って死ぬことすら許されず、心の底から党に服従するよう再教育されたうえで処刑されるのである。

 

 また、本書での権力に対する次のような考え方もとても興味深かった。

権力を行使するというのは、必然的に相手の意に反したことを強制することである。何故なら、何もせずとも相手がこちらの意図する動きをするならば、それに対して権力を行使する必要はないからだ。そして、権力に執着した社会は、権力により相手を踏みにじる快感と権力を侵犯しようとする者への憎悪とが基盤となる。

「一九八四年」では、<二分間憎悪>や<憎悪週間>といったかなり露骨な名称の慣習が描写されているが、読み終えた今ならこれらの慣習が党員に権力を崇拝させるための機能の一つに過ぎないと思わされる。

 

 とはいえ、人が集団として行動する以上、権力は大なり小なり必要となってくる。そのうえで、権力の介入をどこまで許すか、といった事は慎重に決定する必要があると感じた。

 

「一九八四年[新訳版]」著:ジョージ・オーウェル 訳:高橋和久 早川書房 2019年10月15日 四十一刷